北前船の歴史を未来へつなぐ 〜 新湊歴史保存会・堀井泰子さんが語る射水の海運文化

2024/06/14(金)

富山県射水市には、かつて北前船が活躍した歴史が息づいています。その文化を守り、次の世代へ伝える活動を行っているのが「新湊歴史保存会」です。今回は、その中心的な役割を担う堀井泰子さんに、射水市の海運文化や北前船が地域に与えた影響についてお話を伺いました。

歴史を後世に残すために

堀井さんは、放生津(旧新湊市)で活躍した廻船問屋、綿屋彦九郎の末裔。彼女の先祖は、天正年間(約450年前)に砺波から移住し、加賀藩の年貢米輸送や北前船の海運業を営んできました。現在は東京に住みながらも、実家を「放生津北前船資料館」として公開し、2024年7月に「新湊歴史保存会」を立ち上げ、地域の歴史を守る活動を行っています。(ラジオ放送の2024年6月14日時点では、発足準備中)

「家の歴史を調べるうちに、これは私たちの世代で終わらせてはいけないと感じました。そこで、まずは家を資料館として公開し、さらに仲間とともに歴史を保存・発信するための団体を立ち上げたのです」と堀井さんは語ります。

「放生津町」の由来

「放生津(ほうじょうづ)」は、万葉集の時代に海人の集落があり、漁業が行われていた地域で、江戸時代には「放生津町」と呼ばれていました。仏教の「放生会(ほうじょうえ)」という、魚を放し、命を慈しむ行事が由来になっているそうです。魚の恵みに感謝する思いが、この地域の名前に込められていることがわかります。

明治時代には「新湊町」と名を変え、その後「新湊市」を経て、現在の「射水市」となりました。この地名の変遷は、地域が時代とともに発展し続けてきたことを物語っています。

綿屋家と北前船の関わり

綿屋家の先祖は、天正大地震で砺波から移住し、最初は漁具用の藁を商う仕事をしていました。その後、加賀藩から船を所有する許可を得て、年貢米を大阪へ輸送する仕事を始め、この輸送ルートが発展し、北前船の航路へとつながっていきました。

北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海を航行し、大阪から北海道までを結んだ商船です。射水市はその寄港地のひとつとして、重要な役割を果たしました。

「大阪へは米を運び、帰りには木綿や古着、瀬戸内から塩、山陰からは鉄を積んで戻ってきました。この交易が地域の発展を支えました」と堀井さん。

射水と北海道のつながり

北前船は、ただ物を運ぶだけでなく、各地の文化や人の交流にも大きな影響を与えました。例えば、北海道の利尻島には「新湊町」という地名が今も残っており、新湊の船主たちが北海道開拓に貢献した証となっています。ここには、放生津の町でつくられたと言われている獅子頭や太鼓が残っているそうです。

こうした歴史を知ることで、北前船がどれほど広い範囲で影響を与えていたかを再認識できます。

地域に残る北前船の名残

新湊には、北前船に関わった人々の痕跡が今も多く残っています。神社やお寺の玉垣や狛犬には、当時の船主たちの屋号と船の名前が刻まれています。

「こうした史跡を守るために、私たちは署名運動なども行っています。歴史は風化しやすく、意識的に残す努力をしなければ消えてしまいます」

未来へつなぐ新湊の歴史

堀井さんたちの活動は、地域の人々や歴史に興味を持つ人々の協力によって成り立っています。「歴史を守ることは、未来を豊かにすること」と堀井さんは語ります。

「新湊歴史保存会」の活動を通じて、北前船の歴史がより多くの人に知られ、後世に受け継がれていくことを期待しています。

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